稲田屋敷

徳島の河川

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徳島県美馬市脇町

脇城に入城した稲田植元(たねもと)は脇町の復興に尽くし、西阿の一大商業地として栄えさせました。江戸期に入り「一国一城制」が敷かれ、脇城が廃城となった際、阿波本藩より淡路島の洲本城代を命ぜられたが、二代目示植(しげたね)を淡路に赴かせ、自らは隠居となり下級武士とともにここ猪尻に役所と居所つくり残留しました。残った家臣たちは猪尻侍と呼ばれ、以後も町の繁栄とともにありました。屋敷は浜屋敷・中屋敷・西屋敷と三つあり、吉野川に面した浜屋敷を役所としました。また西の丁通りを中心として東西南北に小道をつくり、執務にあたる家臣の集落が形成されていきました。この役所の役割は領内の年貢の徴収と家臣の統制を目的としたもので明治維新前後の記録では会所(集会所)、御所務郷役所(年貢取立)、決断所(辞令を出す)、民事方、御銀所(会計事務)、記録所(名簿作成等)、奉公人裁判御役所、調練場(兵士調練所)、鉄砲場があったとされています。

(看板引用)

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