蜂須賀家墓所

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徳島県徳島市

蜂須賀氏は、阿波と淡路の二国で二十五万七千石余を所領し、幕藩時代を通して徳島に君臨した四国随一の大大名であった。蜂須賀家は家祖彦右衛門正勝の父である蔵人正利が尾張国(愛知県)海東軍蜂須賀村の地二百貫を所領したことから代々蜂須賀氏を称した。蜂須賀家による阿波支配は、家祖正勝が長年豊臣秀吉の属将として仕え、四国征伐でも功をたてたので、天正13年(1585)に秀吉が正勝の嫡男家政に阿波国十七万石を与えたことにはじまる。蜂須賀家政は、関が原の戦いに際して阿波の封土を豊臣家に返上し、高野山で剃髪し蓬庵と号してこもったが、徳川家康の娘婿でもある嫡男の至鎮が、東軍に従軍したことから改めて至鎮に家康から父の旧領を安堵されたもので、淡路国は、その後の元和元年(1615)に大坂の陣の功労によって加増されたものである。蜂須賀家の家祖正勝から十三代藩主斉裕までの歴代当主を祀るこの墓所は、家政の異父兄で、臨済僧となった東嶽禅師を開山とする蜂須賀家の菩提寺江岸山福衆寺を城内から当地に移し、寛永十三年(1636)に寺号を大雄山興源寺(寺禄五百五十石)と改めた時、築地塀と堀で画して造営したものである。しかし十代藩主重喜の明和三年(1766)に佐古の山に、広大な儒葬墓地・萬年山を開設してから十三代斉裕の代までの間は、興源寺墓所は遺髪の拝み墓、萬年山は埋葬墓という両墓制による祭祀がなされた。

(看板引用)

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