今川用水の碑

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藩政時代、小仁宇、土佐、和食は広い耕作地を持ちながら用水が少なく、旱天による不作が続き特に、享保、天明、天保の飢饉の時の農民の暮しは悲惨なものであった。このため農民は那賀川の水を何とか利用できないものかと思っていた。当時財力のあった小仁宇村の今川伊九郎は、那賀川の水を引く新用水路を計画し、簗の上の鵜の首に堰を作り南岸を回って小仁宇までの、全長四八○○間(8640メートル)の工事を天保十二年に起し、幾多の難工事を克服して天保十四年(1843)小仁宇の祇園社に近い王子谷まで完成して通水に成功した。今川九郎が莫大な私財を投じて成し遂げた用水を、人々は今川用水と呼んだ。

(看板引用)

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