谷貞之丞顕頌碑

徳島の河川

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一宇村の郷士、南源六の弟孫六郎は、剪宇に分家し、姓を谷と改め代々庄屋ををつとめており、五代目貞之丞は幼名を弥九郎と言って男気に富み人々から慕われていました。宝永七年(1710年、今から280年前)その年雨少なく、干天続きで農作物は枯れ、村人たちは食物が足りなくなり飢えに苦しんでいました。租税は上に軽く下に重く藩の取り立ては厳しく、極めていました。これに激怒した農民たちは、遂に暴動を起こしました。この事を知った貞之丞は、群像をなだめ、藩主に直訴し農民幾千人の生命は、救われましたが、其の当時禁じられている直訴をした為に正徳二年(1712年)二月十四日、鮎喰川原(現徳島市)で斬首の刑に処せられ、妻子は島流しとなり一家は断絶となりました。以来、280年を過ぎる時、この貞之丞の人を知り、男気に感涙するもの少なくない為に偉績を称え、義人として崇め永遠に顕頌し伝えるものである。

(看板引用)

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