清玄坊の由来

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徳島城

清玄坊の元祖は清和天皇で、皇子民籍降下にあたり天皇より「源氏」の称号を賜り、後に修験者となり三好家と共に、阿波に移り城山に祈祷所を建てていた。蜂須賀公が阿波に入国、築城に際し付近の全寺社に移転を命じたが、清玄坊だけは頑としてこれに応じない為、公は一計を編み換地を与えると言って城下に連れ出し、紙屋町を通行中後から弓で射て謀殺した。途端に蜂須賀家には、変事が続出したので公は清玄坊の崇に違いないと、前非を悔いて石碑をたて、末代まで供養する事を誓った所、此の変事はピタリと止まったという。以来紙屋町の住民は毎年お祭を続けている。清玄坊の長男範月は家政公と和睦をし、父の菩提を弔う為、刻んだ石地蔵が霊験あらたかで、現在掃溜地蔵として瑞厳寺に安置する。次男右京院、三男左京院は難を逃れて、阿波郡の東西善地に落ち着き、祈祷の傍ら農業をしながら酒巻家として今日に至っている。その子孫の五宝翁太郎は徳島県立聾唖学校の創始者であり初代校長でもある。又真珠湾攻撃で魚雷不発の為、九死に一生を得た特攻隊員の酒巻和男も此の子孫である。

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